ピンク色の

私が私でいられるように書きます。

夏休みの日記

気が付けば、夏のせいにできなくなりそうだ。

あんなに鬱陶しかった蝉の声だっていつの間にか聞こえなくなってるじゃないか。

どこいったのかな、死んだのかな。

 

8月31日といえば、夏休みの終わり。

夏が嫌いになったのはいつからだろう。インスタグラムやTwitterを見るのが

苦しくなったのはいつから?

SNSの投稿なんて、日常の、絶頂の部分を切り取っているだけというのは

わかっているけど、絶頂を迎える過程にも至らないから、僻みだと思う。

夏、といえば楽しくてキラキラしたもの。だという観念に縛られてしまうから苦しいんだと思う。

夏は嫌い。暑いし、日焼けするし、汗でべたべた、化粧はどろどろになるし。

夏は嫌いでも、夏の終わりだけエモい気持ちになるのはなんでだ。

 

夏って一番騒がしくてごちゃごちゃしてる季節だと思う。

空気は夜になっても静かじゃない。どこかしらで花火の音もするし。

だから、それに紛れて色々ごまかしてしまうんだと思う。

まあ夏だしいっか。

どうせ、この夏が過ぎたら、忘れてしまうんでしょ?

そして、秋になったらそれに殺されるんでしょ。

夏に買ったもののツケを払わなきゃね。

 

毎年夏に思うこと。

夏が終わるまでに死のう。

夏だから、死んでしまっても、色んなものに紛れてばれない気がする。

きっと死んだ音は、かき消されて誰にも聞こえないだろう。

 

かき氷食べてないし、花火もしてない、夏らしいことしてないから

夏考えたことでも書こう。

 

人を愛するってどういうことだろう。

家族でさえも時々、この人たちは誰なんだろうと思うことがある。

仲が悪いわけでもないし、特別何か問題があるわけでもない。

友達に、「ねえ、自分の周りのこととか、どれくらい家族に話す?」

って聞くと、大抵は結構深くまで話してるって言う。

まあさすがに、今日ヤらかしちゃった!とまでは言えないけどね(笑)って。

家族と過ごして21年以上になるけど、昔から自分の気持ちとか、正直に話すことをしてこなかったな。

特別厳しく育てられたわけでもないけど、抑制はされていたような気がする。

勉強と習い事は昔からこの通りにしなさい、絶対しなさい。と言われてたな・・

テレビもロクに見せてもらえなかったから、今でもテレビを見る習慣がない。

だからテレビの話題になると、逃げたくなる。

ずっとずっと、公務員になりなさい。安心だから。って言われてきて何も考えずに

従ってきた。結局大学で、色々話を聞いてやめたんだけど。

 

バンドのサークルに入りたくて、ベース買おうと思うんだよね~って言ったら

どうせ続かないでしょ?って言われたな。

珍しく自分の意思を押し通したなぁ・・

 

大学入って、私は今まで、親や祖母が敷いてたレールの上を歩いてきたんだって思った。なんかの本で読んだ。自分で決断してこなかった子供は、自分に自信が持てないって。

就活の時も自分の選択にずっと自信がなくて、今もこれでいいのかずっと不安のまま。

親に相談したこともあるけど、うん。そうね。以上の返事が返ってこない。

だめだ、何言ったって無駄だと思ってそれ以来相談するのは止めた。

 

ああ、自己肯定感が低いのってこれに繋がっていたんだ。

「自分を愛せなきゃ人も愛せない」って言うのは本当だ。

自分を認めてこそ人も認められる。

 

今も人のこと愛した経験がない。

好きだと思っても、それ以上のことはないというか、この人を無条件に愛せると

思ったことはない。

 

自分の子供は無条件に可愛いというけど、それは絶対ではないと思う。

仮に私に子供ができたとしても、嫌いな自分の遺伝子を受け継いでほしくないと思うし、自分の血が半分流れてると思うだけでもゾっとする。

 

 

8月31日には超絶エモいことして死のうよ。

 

きっとこの時期から「若者のすべて」とか聴くんだ。

終わりがけに聴く「ラブホテル」もいいよね。

9月に入れば「セプテンバーさん」。

 

私は「22歳の夏休み」。

 

 

いつになってもきっとこう

就活と恋愛は一緒だと聞くけれど、本当にそうなのか? 

就活が始まる前に死のうとか思ってた。大学に入ったのはいいものの、特にこれといってやりたいことも見つからなかった。嫌いな言葉は、「社会貢献」「地域発展」。本当はそんなこと微塵も思ってないくせにってずっと思ってた。どれもこれも就活のためでしょってそんな風にしか思えなかった。かくいう私も、なぜこの大学に入ったか面接で聞かれた時には、「地域活性化のために~・・」とか言ってたくせにね。

 

そんなこんなでだらだら過ごしていても、嫌でも大学にいる限り就活からは逃げられなかった。ちゃんと将来したいことを持っていて、それに向けて勉強している友達もいたし、私と同じように、何がしたいかなんてわかんないよねって友達もいた。

大学って社会に出る前の猶予期間とかも聞くけど、まあその通りだよね。

大学で色々勉強していれば、何かしたいこと見つかるんじゃないかなって思っていたけど、全然そんなことはなかった。見つからなかった。私の学部、誰に話しても、何勉強するところなの?って聞かれる。その度に困る。

 

就活といえば、定番中の定番。ド定番な質問・・学生時代に力を入れたこと、自己㏚、志望動機・・etc。

定番のくせにこれらが一番苦しかった。私、何してたんだっけ。思い返すと、恋愛拗らせまくったこと、何であそこまで死にかけながら働いていたのかわからないバイトのことくらいしか出てこなかった。ゼミもこれといった活動はしていないし、サークルは幽霊部員だし・・。自分は何も得られなかったと痛感させられた。

自己㏚が一番苦痛だった。自分が嫌いな自分を、どうやってアピールしろというのか。粗悪品を売りつける店員の気分だった。

 

ちゃんと自分がやりたいと思える仕事がしたかったし、続けていくにはそれが一番いいと思って、自分の大学からは多分、進んだ人がいない、かもしれない業界を受けた。自分が好きなものだったから、好きなものを仕事にできるなら多少辛くても続けられるんじゃないかと思ったから。でも、だめだった。2社受けたけど、1社は筆記落ち、もう1社は1次面接落ち。面接官の、あの興味なさそうな態度は忘れないからな。

業界を変えた。接客のバイトをしていたから、人と関わる仕事にしようと、営業を受けてみた。今思うとそりゃ落とされるよなと。人見知り、コミュニケーションがそこまで得意でもない。大人しい性格。完全な自己分析不足。

そして私は先日事務職の内定をいただいた。

 

ころころと業界を変えてきたわけだけどいつの間にか、自分のしたいこと、から自分を受け入れてくれるところに変わっていた。内定はものすごくありがたい。やっともらえたのだし。結局、私は何を目標に就活をしていたのかわからない。

内定をもらうことがゴールだった。

 

就活中は、自己肯定感が地の底まで落ちる。落ちるというより、削られるといった方がいいかもしれない。自分の浅はかさ、他人と比べての劣等感、就活生のお手本みたいな人と一緒になると最悪だ。就職できなければ死ぬという謎の焦り、世間体・・

世渡り上手でコミュニケーション力の塊のような人は強い。

 

就活と恋愛は一緒じゃないと思うし、一緒であってほしくないな。

合わないのに一緒にいると辛いという点に関しては一緒かもしれないけど。

自己が殺されたり、相手にこびへつらって、偽りの自分を受け入れてもらおうとするなんて、そうであってはいけないと思うから。

 

踏み入れてはいけない思考回路

何も予定がない休日の夜は死にたくて仕方なくなる。

何もできなかったとか 誰とも話してないとか 自己嫌悪。

 

Fさんの『真夜中乙女戦争』を少し読んだ。

「世界で1番危険な行為って、何だと思いますか。」

 

私が嫌いな何も予定のない休日。

もちろん、前の日はものすごく疲れてて今日は休みたいなんて時はありがたい けど夕方頃になれば

今日もっと何かできたのではと自分を責め出す。

夜になると、この20代前半という時期に1日ひきこもってもったいない 無駄に消費してしまった。とどうしようもなく悲しくなる。

 

なぜ生きているのかわからないとよく思う。

きっと死ぬまで いや死んでもわからないと思う。

永遠の疑問だと思う。

人生は消費活動。時間を消費しお金を消費し体を消費し… 減ってゆくものをじっと見つめているのが耐えられない。

 

なぜ生きているかと考えるのか。

自分を正当化したいか、 自分のしてきたことに本当に意味があったのか知りたい、つまり自分を丸ごと肯定してほしい。

今もこうやって、生きている意味を教えてほしい。

 

気がつけばこの世に存在していて、学校で勉強し、働く… そして死ぬ。

この活動に何か意味があるのだろうか。

何か意味がなければ、やりたくないことを我慢してやって、辛いことに耐えて、漠然とした人生に這いつくばって、なんてことできないし、やっていられない。 それこそ本当に絶望だ。

 

意味があるということは希望なのでは。

 

自分がやっていることに意味があると思うからこそできる。きっと、きっといつかはわかる。報われる。と信じているからこそできるわけでしょ。

 

意味を求め続けなければ人間は生きていけないし

絶望の中で死んでしまうのだろうな。

だって、無意味なものの中で、無意味なことをし続けているだなんて知ったら何もしたくなくなるでしょ。

 

私たちに、希望はあると思う?

 

 

 

体と身体

どうして自分の身体を売ってはいけないんですか?

という問いに何と答えてくれますか。

なぜこの仕事を始めたんですか?と聞かれたら

狂った貞操観念を生かしたいことと 若いうちにできること(若くなくてもできる仕事ではありますが独身が望ましいでしょう)をしたかった ありあまる性欲の捌け口が欲しかった。と答えるはず。

でも1番は、現実逃避。

何か知らない世界に、背徳感のある世界に行ってみたかったんだと思います。

他の人の知らない自分になりたかった。

他の人の知らない世界に行きたかった。

 

この仕事をしているってことは誰にも言っていません。墓場まで持っていくってこういうことなんだなあとしみじみ思っています。

 

でも、この仕事が悪いとかそんなことを言ってるわけじゃありません。個人の価値観ですから。

 

身体を売る 体を売る

漢字を変えると意味が違うように感じませんか。

前者はそれ自体を捧げるような

後者はそのものではなく、労力を捧げるような

個人的な考えかもしれませんが。

 

この仕事は、どっちだろう、きっと前者です。

 

「仕事ばかりだけど、体も大切にね。」と言うのは健康を気遣ってね という体そのものを大切にということだけど、

「もっと自分の身体大切にしなよ。」と言うのは

誰にでも自分の身体を許すなよってことでしょう。

 

「身体を大切に」の意味がずっとわからなかったんです。私は自分の意思で寝てるわけだし身体を売ってるわけだし、それがなぜ大切にしてないことになるのか、わからなかった。

 

最近思ったんですよ。

「身体」ではなく、「時間」なんじゃないかって。

あ、これは誰とでも寝るときに言われる状況に限ります。身体を売るのは仕事だから、時間を無駄にしているわけではないですからね。労働です。

 

あなたがテキトーな男と寝てるその時間で

美味しいものが食べられたかもしれないし、美容の時間に当てられたかも、はたまた友達と楽しい話ができたかもだし、いい出会いがあったかもしれない… と考えたら、次の日には顔も忘れてるような男と寝るのは時間を無駄にしていたってことなんじゃないかなって。

うん、こう言われると私でも、大切にしようと思います。

 

次、仕事として身体を売る場合ですが…

労働ですから、時間を割き働く代わりに、お金を貰っているわけです。 提供しているものは?

労力…そのほかには…自分の性…??

羞恥心は捨ててしまったし、誰のでも関係ないし、

自分の中で守っていたものを売ってしまったわけです。お金じゃ取り戻せないものを。

身体を大切にじゃなくって、「持っておくべきものはちゃんと持っておきなさい」と言ってくれたなら

ああ、そうかと思ったかもしれません。

 

でも今更、いいんです。

自分の承認欲求が満たされて お金ももらえて

さみしい時間を埋められるなら。

 

いつか、後悔する時が来ますか?

 

 

 

 

 

首吊り自殺

今まで生きてきた世界こそがこれからも自分の世界であることはなかった。

生まれてからずっと家庭、学校等で育てられてきた 身体的にも精神的にも。

今思えば教室というのは思想の監獄だった。意見を持てと言われても、みんなと同じ一般的な考えでないと否定されるし、集団の空気に殺される。

学校での教育は思想の統一だと言われるが、実際、統一されている側も統一する側も意識がないのだから、それが一番怖いと思う。

この考えが正しくてむしろこれ以外にはないと思っていたし、多分、先生だってこの考えこそが正しいと信じていたのだから。

 

この歳、といってもまだ21だけど、大学に入ってから考える幅は広がったように感じている。たくさんの人に会って色んな生き方や考え方を見た。

更にSNSでは更にもっと多くの人の考え方を見て、色んな音楽を聴くようになって、歌詞を読むようになった。

 

昔、縛られていた価値観は何だったんだろうと思う。

いい成績をとっていい会社に入り、友達をたくさん作り、恋人を作り結婚、子供を作って幸せに暮らさなければならないとか。

 

あなたは何もできないんだから家を離れないでね、とか私の言うことを聞いていれば間違いないのよ、とか思い出すと吐き気がする。

 

どうせ私の人生で、私の命で、生き続けたって、明日死んだっていい。

好きにしていい権利は少なからずあるはずだ。もちろん、迷惑かけまくるような死に方はしたくないけど。

 

自由に思うことはあるのに、それがだんだん削られ、形を変えられ、型にきっちりはめられるような もう世界は一つしかないと思わされるような 苦しい者の逃げ場がないような そんなものはいらないと思うのに。

 

がんじがらめになってるの、首を絞めて殺してあげたい。

 

 

知らないものは怖いこと?

死生観について書いてあると目に止まる。

ずっと死ぬことについてぐるぐると考えていたから

何か救ってくれるものが書いてあるんじゃないかって。

「死を思うから、生が輝く」って 大学の講義で使った本に書いてあった。

医療が発達する前、死が身近だった。宗教的にも死んだら極楽浄土に行けると信じられていた。

医療が発達し、死をタブーとしている現在、宗教の信仰も薄まっている。死がわからない、わからないものは怖いと感じる。

 

なるほど、と思うところと そうかなぁって思うところがあった。

 

死を身近に知っているから生きることを大事に思える と言うのはわからなくもない。身近な人が死んでしまった時、本当に命には終わりがあるんだと、有限なんだと実感するだろう。

死ぬことは未知だけど、怖いとは限らない。今生きている世界よりもいいと感じるかもしれないし。

生きることを大切になんて みんながそう思えるのか。 少なくとも私は感じない。

 

 

私でも、死ぬ間際には少しでも生きたいと思うのだろうか。人間の本能が、そうさせてくれるだろうか。

 

ただただ、毎日消費して時間とかお金とか、色々なものを消費しながら生きていくことが怖いんだ。

漠然とした不安に襲われるんだ 。

このままこんな感じで生きてていいのだろうかって。

 

死ぬって世界の終わりだっていうじゃない、

 

私の理想の死に方は大好きな人の前で最高にグロテスクに死ぬこと。

 

 

 

 

絶望の春

4月

春の空気に殺される。

毎回季節の変わり目は、まだ生きてんだなって実感させられるから嫌い。

冬は冷たくて厳しくて早く死ねと言う 孤独感を引き立たせてきたし しんとした空気が心に刺さってた。

春になって 温かい空気が 新学期が始まる前の微妙な緊張感とか まだ新鮮な気持ちで迎えられていたときのことを思い出させて 春はわくわくするもの、始まり、希望だとかそんなものを押しつけられているようだ。 温かい空気が、もう死んでもいいよって許してくれてるような気がするんだ。

生ぬるく私のこと半端に許してくれてるような気がするんだ。

 

ピカピカのランドセルとかそんなものにすら心が殺される 。 

 

 

 

今年度までに死のうと思ってたのにそれも叶わず、

絶望の春。